ドンドン商店街の歴史



なんでドンドンというの?

 

その昔、ドンドンは、北に東海道、南に鎌倉街道に挟まれ、庚台、三春台、清水ヶ丘と小高い山々に囲まれ、その谷間を走るなだらかな小川のせせらぎは穏やかでゆったりとした川の流れは人々の心を和ませました。しかし雨になると丘から流れ落ちる雨水がたちまち増水、下流(ドンドンのあたり)になるにつれ水かさは増し、ものすごい勢いで流れ、加えて段差が二ヶ所あったのでそれが滝のようにドンドン、ドンドンと音を立てて流れていたと言われています。音、響き、激しい流れ、その速さを見て当時の人々は『ドンドン流れるドンドン川』といい、その橋を『ドンドン橋』と呼んでいました。そのドンドン川は本流大岡川に通じております。大正末期から昭和初期にかけ道路整備が行われ、暗渠と化し現在は下水道として役立っております。今でも大雨になると雨水があふれ出し、下水に入りきれずマンホールの蓋を吹き上げ噴水状態になり、川の流れのすごさを感じます。


ドンドン今昔物語

 

 港横浜の南部に位置し流れも清き小川に沿って店が点在していた。古くは久良木郡戸田村富士見耕地富士山下と云われ、北は一本松を経て戸部に、南は常照寺から弘明寺 鎌倉に通じ、東は磯子から横須賀へ 西は保土谷を経て東海道へと通じる主要幹線の要所でもありました。

 大正12年9月の関東大震災により横浜はほとんど焼け野原と化しましたが、幸いにも当地には一部免れた場所があった為に急激に町が発展したようであります。沿道沿いの小川もその後暗渠となり、道路も拡張され現在ような街並みが形成されました。

 昭和19年1月 政府は「新防空法」を施行、住宅密集地等は家屋を破壊され空地を生み出し空襲による火災の拡大を防止しようとする狙いでした。当地横浜でも争って家財等を地方に送り出し家族は地方に移ったりしてバラバラな生活が始まりました。同年6月には国民学校初等科(現在の小学校)に在学する子供たちを学校ぐるみで疎開する様命じられこれが学童疎開の始まりでした。理事長若山清氏もその一人であります。

 戦後在住して一部無事戦火を逃れた商店主たちは再起の念に燃え、衣・食を中心に自然発生的に商店が開業し周囲の消費者から大変喜ばれ地域に大いに貢献しました。

 昭和26年6月任意団体「ドンドン商栄会」を我々の先輩が結成、初の共同売り出し等も全店参加で実施されました。その後先ず中元・歳末と今では考えも及ばないような奇抜な方法で体を張って宣伝サービスが行われました。ドンドンはそのネーミングと知名度は横浜中に知られるようになったのもこの頃でありました。隆盛を極めたドンドンも昭和51年交通規制が実施され先進商店街に同じく歩行者天国と呼ばれてお客様は道路の中央を安心してお買い物に専念して頂ける様になりました。

 その後、自由経済の原則に従い当地南区にも「大型店」が進出し、消費者は新しい「大型店」へ家族でお買い物に出かけるのであります。従って当商店街も空洞化が始まり我々が知恵を出し汗してもこれをつなぎ止めるに苦慮しましたが、大型店進出に歯止めがかからず......平成2年行政による大型店が施行され我々の出店反対運動も実らず、現状維持、自助努力しか方法が見出せず現在に至っております。しかし当時は発展著しい「みなとみらい」一直線上の地の利を得ており望みを捨てずに一人一人のお得意様を大切に各店頑張っている処であります。

 現在「車社会」にあって交通止め規制も一考を要する時代に入ったのかもしれない。とにかく現店主一同英和を結集し、頑張って次世代の後継者にバトンを渡し、育成していく責任の重さを感じます。